151系誕生の背景といきさつ

<はじめに>
  「こだま」形電車と言われて、40歳代後半の人なら誰もが思い浮かべるのは、新幹線の「こだま」ではなく、クリームと赤のツートーンに塗り分けられた流線型の特急電車であろう。昭和30年代当時「でんしゃ」の絵本では必ず表紙を飾っていたし、ブリキのおもちゃにも流線型を巧みに表現した製品が登場、学校でも「こだま」に乗ってきた子はクラスの英雄であった。

 

子供達の憧れの的「こだま」号はブリキのおもちゃでも人気があった

 その「こだま」の名で一世を風靡した151系(モハ20系)は、走行性能、接客設備、デザイン等を総合した車両技術というハード面の飛躍的向上と、東京〜大阪間日帰りの「ビジネス特急」への投入というソフト面の両方が極めて高い次元で結実し、誕生から半世紀、直系の181系引退からも四半世紀を経た今日においてもなお、私たちの記憶に深く刻み込まれた名車中の名車である。
 しかし華々しい活躍は、東海道新幹線にその座を譲るまでのわずか6年足らずで終わりを告げ、山陽と上信越・中央の各線で余生を送ることとなり、各使用線区の実態に合わせた幾多の改造を経て、四半世紀にも満たない波乱の生涯を終えることとなった。

<時代背景>

 さて「こだま」型長距離高速電車の誕生は今から47年も前の1958年9月のことであるが、この間に国民生活水準は高度成長期を経て飛躍的に向上し、オイルショックやバブル崩壊があったとは言え、今の私たちの生活水準と1958年当時のそれとではそれこそ全くと言って良いほど変化してしまった。この全く新しい特急電車が当時の人々にどれだけの驚きと羨望、賞賛をもって迎えられたかを知る上で、当時の時代背景や国民生活にある程度触れておく。
  1955年(昭和30年)、日本は戦前の所得水準を回復し、1956年には『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言するに至ったとはいえ、国民生活はまだまだ高度成長の緒についたばかり、庶民の憧れであった三種の神器「電気冷蔵庫、電気洗濯機、白黒テレビ」もようやく一部の家庭に普及し始めたところであった。テレビは街頭テレビが幅を利かせ、冷房に至っては事業所でも設備しているところは希で、一般家庭では扇風機があれば良い方であった。「自家用車、クーラー、カラーテレビ」のいわゆる3Cといわれる贅沢品が普及し始めるまでにはさらに10年の歳月を要したのである。

         

三種の神器と呼ばれた電気冷蔵庫・電気洗濯機・白黒テレビ
東芝ホームページ「なつかしの電化製品」http://www.toshiba.co.jp/care/benri/kaden/nenpyo.htmより

 一方鉄道はといえば、日本の大動脈東海道本線ですら戦前は国防上の理由から沼津〜京都間が非電化のままであり、江戸時代に同じ東海道の大井川や安倍川に橋が架けられていなかったことを笑えない状況であった。
 戦後復興のかたわら、GHQの統制下にあって資材の調達や財源に苦労しつつ東海道本線の全線電化が完成したのは1956年11月19日、「こだま」誕生のわずか2年前であった。

東海道本線全線電化前、東山トンネルを抜け、米原までC6216が牽く上り4レ「はと」
画像提供:辻阪 昭浩様

 大阪から上り「つばめ」に3時間揺られて名古屋に着き、新鮮な空気を吸いにホームに降り立とうとデッキの手すりに掴まったとたんに、うら若き乙女の白い手はC62の煤煙で見るも無惨に真っ黒け。そんな光景が東海道本線においても日常だったのである。
 また車両においても冷房車は1等展望車や食堂車、1等寝台車と一部の2等寝台車に限られ、特急用車両といえども2等車、3等車に冷房車は存在しなかった。さらに電車は、一部私鉄において高性能軽量車体の電車が出現していたものの、国鉄では1957年6月にようやくモハ90型電車の試作車10両が誕生したばかりで、あとは全て釣掛駆動の電車であった。

1954年に登場した私鉄初期高性能車の代表、東京急行電鉄のデハ5000系

 そんな中、クリームと赤のツートーンカラーも鮮やかな流線型の特急電車が忽然と現れたのだから、その姿が人々の目に「掃き溜めに鶴」と映ったことは想像に難くない。

<「こだま」誕生のいきさつ>
  1955年当時の日本国内旅客輸送における国鉄のシェアは50%を占め、私鉄も合わせた鉄道のシェアは実に82%を超えていた。中でも東海道本線の輸送量は年々増加を続け、国鉄全線の輸送量の1/4弱が東海道本線に集中しており高速列車の増発が急務であった。1955年12月には、東京〜大阪間を6時間30分で結ぶ超特急運転計画具体化に向けて、高速運転仕様としたEH1015と完成したばかりの軽量客車を使った高速度試験が実施された。この試験結果から、軸重の大きな機関車牽引による客車列車での6時間30分運転実現には、軌道強化をはじめとする莫大な設備投資が必要との結論が下され、軌道の脆弱な日本の鉄道事情に合致した動力分散方式の電車による長距離高速列車運転に方針が転換されていったのである。

動力分散化前の象徴、旅客用EF58と貨物用EH10
画像提供:辻阪 昭浩様

  動力分散化の流れを作ったのは当時の国鉄技師長島秀雄氏に他ならない。島秀雄氏は1901年(明治34年)生まれ、父 島安二郎氏、次男隆氏と共に鉄道に生涯を捧げ、また東海道新幹線の生みの親としても有名であるが、戦前は3シリンダのC53、名機と謳われるD51等の蒸気機関車の設計に従事しながらも、新幹線の布石となる弾丸列車構想を掲げた先進的発想の人物であった。戦後は疲弊した鉄道の復旧に全力を挙げるかたわら、早い時期から動力分散方式の優位性に着目、「高速台車振動研究会」の座長を務め1950年にはモハ80系湘南電車の実現に漕ぎつけた。1951年に発生した桜木町事故の責任をとるかたちで国鉄を退いたが、新幹線計画実現に向け、十河国鉄総裁の強い意向によって国鉄に副総裁待遇で復職したのであった。

「こだま」誕生以前からすでに東京〜名古屋、名古屋〜大阪を準急として走破していたモハ80系電車
画像提供:辻阪 昭浩様

  当時、モハ80型湘南電車が地道に長距離運転の実績を積み上げてはいたものの、一般的には「電車は音がうるさく、振動も激しい」という印象しかなく、機関車牽引による客車列車こそが優等列車にふさわしいとするのが国鉄内部においても常識であった。その常識を覆し、島技師長の号令の下、東海道本線の超特急計画を動力分散方式で実現するということは、冷や飯を食わされながらも長年電車の設計にたずさわってきた「電車屋」にとって、千載一偶のチャンスであり、また大きな試練でもあった。1957年2月に本社工作局から設計部門を分離し「臨時車両設計事務所」が作られ、その初代電車主任技師に星晃氏を迎えたことも、「こだま」誕生の大きな原動力となった。1953年から1年間のスイス留学で吸収した欧州の鉄道先端技術を早速軽量客車に活かした星氏が、いよいよ長距離高速電車の設計に腕をふるうことになったのである。
  のちにボンネット形と呼ばれる、機械室を先頭部の流線型部分にまとめ、高運転台とする方針は早い時期に決定していたが、編成や構成される形式については様々な意見が出され、その都度検討が重ねられた。1957年6月には国鉄初の
新性能電車モハ90形がデビュー、軽量全金属車体、台車装架小型高性能電動機を採用した静粛性と乗り心地の良さは、国鉄部内の電車に対する認識を変えるに十分であった。

1957年に誕生した国鉄初の平行カルダン駆動方式モハ90形電車
画像は101系改番後の試作車両

  一方、特急車両にふさわしい乗り心地と徹底した防音技術開発も急ピッチで進められ、ユニットクーラーはモハ80系のサロ85020に試作品が取り付けられ1957年8月24日から営業に供したほか、空気バネ台車は軸バネ式をキハ48102で試験の後、枕バネ方式に改めたKS-51を京阪電鉄1810形に試用して実績を確認、1957年10月モハ90502に試作空気バネ台車をDT21Yとして取り付けた。
  1957年9月には小田急の高性能ロマンスカー3000系SE車による高速度試験が国鉄東海道本線で行われ、9月27日には三島〜沼津間の下り線で、当時の狭軌最高速度記録145km/hを樹立した。さらに同年10月30日には歯数比を3.95に変更したモハ90形による高速度試験において切妻車体でありながら135km/hを記録、上記試作空気バネ台車DT21Yの乗り心地も良好との結果を得て、電車による長距離高速列車運転実現の機は熟した。

「こだま」前年にデビューした小田急電鉄3000系、高速度試験の各種データは「こだま」に反映された
画像提供:辻阪 昭浩様

  1957年11月12日の理事会で、ビジネス特急運転について、次のような事項が正式決定され、いよいよ長距離高速電車の設計製造が急ピッチで進められることになった。
1.33年度中の実施とする。
2.クハ・モハ・モハシ・サロの4両を背中合わせに連結した8両編成とする。
3.軽量新性能電車を3編成用意し、東京〜大阪間6時間30分運転を目標とし、2往復設定とする。
  設計製造と平行して、クハ76059及びサハ87100でディスクブレーキ現車試験、近畿車輛製モハ90新車回送を使ってのラジオ聴取試験、ヘッドライト光量、タイフォン音色試験が実施された。またモヤ4700(のちにクモヤ93000に改番)の監視ドームを使って高運転台からの信号見通し試験等が行われ、1958年2月には大阪大学で1/5模型を使った風洞実験も行われた。

モハ51078を改造した架線試験車モヤ4700。後にクモヤ93000に改番、175km/hの高速度記録もうち立てた。

  1958年5月「ビジネス特急」の概要が発表されると共に、列車名・シンボルマークの公募も行われ、応募総数は列車名に92000通あまり、シンボルマークには5500点あまりを数える大反響となった。

ビジネス特急の愛称とマーク公募のポスター
所蔵:交通博物館

  最終的に列車名は374通の「こだま」(ちなみに最多は「隼」の5,957通)が採用され、シンボルマークは逆三角形をアレンジしたマークが選ばれた。また、列車側面に取り付けるJNRマークも佳作の中から選ばれ、特急列車の先頭部側面だけでなく、分割民営化までの30年近くにわたり国鉄のシンボルマークとして広く使われることとなった。

「こだま」のヘッドマーク。これは後に着脱式に改められたものである。字体は当時の川崎車両設計課長 米満 知足氏によるデザイン。
所蔵:交通博物館


永らく電車及び気動車特急のシンボルマークとして使われた砲金製の特急マーク。


巧みにJNR(Japan National Railwey)をデザインしたマーク。「こだま」ばかりでなく国鉄そのもののロゴとして「エ」マークに代わりJR継承まで親しまれた。

  1958年7月には、「こだま」と「あさかぜ」の外部塗装が発表になった。昼行特急である「こだま」はクリーム色をベースに、窓廻りと裾に赤い帯を入れたものとなり、雨ドイにも赤の細いラインが入った。当初ライトケースに回された赤い帯がそのまま前面にまで回される予定であったが、当時の遊覧バスに似て少々品がないとの理由から完成直前に取り止めになっている。同時に雨ドイの赤い細帯も客室部分のみに変更されている。

1958年7月時点の外部塗装を施したと想定した先頭部分イラスト。印象が全く違い、スマートさに欠ける。

  かくして1958年9月17日、「こだま」は産声を上げたのである。

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