1974年5月4日 近鉄(其の1)

ゴールデンウィークにはなぜか「近鉄」に行く。ゴールデンウィークだけに「金鉄」ならぬ「近鉄」を訪れたなどとオヤジギャグを言う気はほんの少ししかないが、1973年8月に「近鉄」をはじめとする関西私鉄に触れてしまった私は、「西高東低」の鉄道天気図にすっかり魂を奪われてしまった。
元々国鉄から始まったこの趣味であったがために、その興味は当然のごとく高速電車に向けられ、西日本に大きく張り出している「高気圧」勢力圏への憧れは熟成されていった。
当時すでに近鉄大阪線急行の主力は2400系・2610系に移り、かつての王者元参急の2200系は急速に淘汰が進みつつあった。それでも、名張〜伊勢中川のローカル運用で青山峠に150kwの狭軌モーター音と電制音、そしてダブルタイフォンのハーモニーを響かせていた。一方、名古屋線においてはまだまだ急行の主力として頑張っており、「名古屋まで行けば2200系に会える」とばかりに機会を見つけては近鉄詣でを繰り返していたのである。
1974年から3年連続でゴールデンウィークに近鉄を訪れている。
今回は1974年のゴールデンウィークをお送りする。今から33年前の事である。

ゴールデンウィークは混む。急行「銀河」の指定がとれなかったのか、変わったルートで行ってみようと思ったのか、「デトニの部屋」のデトニ氏と「アルプス51号」と「きそ4号」を乗り継いで行くことになった。
まるで恋人に逢いに行くときのように発車の1時間も前から新宿駅に着いてしまった。居ても立ってもいられないというのはこういうことを言うのだろう。お陰で前年4月から長野受け持ちに変わった「あずさ」の先頭に立つクハ181-109を口開けの1枚に出来た。

1974年5月3日  新宿


今どきは、デカ目だのやれ国鉄急行形の終焉だのと喧しいが、この頃はどこを向いてもこの顔ばかり。いささか食傷気味ではあったけれどやはり撮っておくものである。153系の途中から運転台を高くしたこの顔、「シールドビームは似合わない」とは星晃さんのお言葉だが、塗装も153系のオレンジ一色より締まりがあって精悍。いかにも「急行電車にござい。」という感じの風格があった。先頭をつとめるは、クハ165-189。「よんさんとお」に今は亡き汽車会社で作られ、ずっと松本で山男の相手をしていたが、国鉄末期の1984年、交直両用改造を受けてクハ455-320に変身の経歴を持つことになる。待ち受けるそんな運命などつゆ知らず、地道な臨時急行運用をこなす姿もまた良い。

1974年5月3日  新宿


「『アルプス』ぐらい入れておくれよ。」と文句の一つも付けたくなる列車案内だが、入力すればどんな愛称だろうが行く先だろうが色とりどりに表示でき、おまけに日本語・英語と交互に表示される現代の高輝度LED表示器とは訳が違う。乳白色のフィルムに書かれた文字以外表示できよう筈もなく、ご覧の「0」ように位置がずれてしまったり、いつまで経っても止まらずに行ったり来たりを繰り返す、なかなか機嫌取りの難しい代物であったようだ。

1974年5月3日  新宿


大月到着は20時32分、新宿から1時間22分はなかなかの俊足。
ところがこの画像、ちょっと変なことに気づかれただろうか?ホームにぼうっと浮かび上がる女性のことではない。大月の駅だというのに広告は「石和温泉」と「甲府駅前のビジネスホテル」なのである。

1974年5月3日


153系などには箱形のやや無粋なスピーカーが付いていた(下に画像あり)のだが、165系ではなかなか洒落たスピーカーが付いているものだ、と思って撮影した。ところが後で調べたら165系も初期の車は箱形のスピーカーであったことがわかった。

1974年5月3日


夏は避暑地蓼科高原の入り口として賑わう「茅野」も、5月はじめではまだ寒い。おまけに22時台ともなればホームに人影もない。ホームの白樺とベンチが異様に浮かび上がり、何やら不気味でさえある。

1974年5月3日


辰野付近を走行中の「アルプス51号」クハ165-189の室内。冷房準備車として製造されているが、改造は1971年夏である。夜行列車ではないのだが、室内の雰囲気は夜行列車そのもの。

1974年5月3日


中央線といえば800番台。モハ164-813の低屋根室内部分である。非冷房時代のファンデリアの写真を撮影しておくべきだったが、今となっては後の祭り。クハ165-189のスピーカーについて触れたが、こちらは低屋根部分にわざわざ大きな箱形スピーカーを付けてある。取り替えればすっきりしたと思うのだが。

余談であるが、その昔モハ102が続々作られて799迄到達したらどうするかと思ったが、平気な顔をして800番台が現れた。もちろんモハ102にはパンタは付いていないから800番台であっても屋根は普通の高さだった。その800番台も899迄来たので、今度はどうするかと思ったら、一気に2000番台にした。客車ファンが「103系もようやく電気暖房になったのか」と笑ったとか。

1974年5月3日


塩尻で「きそ4号」(1:12)発まで、1時間半以上あった。計画では駅前で食事でもするつもりだったんだろうが、都会育ちの世間知らずのなせる技。駅前に明かりなど何も無いというのが現実だった。「24時間眠らないのは東京だけか。」と思い知った日であった。誰も居ない待合室で空腹に襲われながら時計と睨めっこ。これほど時間がゆっくり経つ事を知ったのもこの日だった。
※以後断りのない限り1974年5月4日撮影。

塩尻


やることがなけりゃ写真撮るくらいしか思い浮かばない。憧れの近鉄2200系を収めるはずのフィルムに、どんどん国鉄の駅施設の写真が焼き込まれていく。しかしこれもこれで貴重な記録である。

塩尻


「もう営業は終わり。」と言いたげな出札窓口。頭上の運賃表は初乗り30円。新潟まで1220円の表示が読める。右には小海線・大糸線・中央西線の時刻表、出札の間に貼られた「お知らせ」を拡大してみたら次のように書いてあった。

 ●関西−九州間に二段B寝台車が走ります。
 ●B寝台車に種類を表す★のマークが付きました。
 ●B寝台料金は次の通りです。
   種別   上段  中段  下段
    ★   1100 1100 1200
   ★★  1300 1300 1600
  ★★★  1600      1600

今の収入で暮らせるなら、実に良い時代だったと思う。

塩尻


やっと来た「きそ4号」で名古屋を目指す。165系主体の中にサハ153−3が連結されていた。番号からも判るとおり、MG・CPを持たないサハ153であるが、この番号は2代目である。1958年に最初に作られたサハ153−3(当時はサハ97003)はCP付きであった。ところがその後、1960年にMG・CP付きの200番台と何も持たない基本番台を製造するに及び、初代のサハ153−3はサハ153-103に改番、2代目の誕生となった。初代と同じ日本車輌で作られ、宮原・向日町・岡山と渡り歩き前年の1973年中央西線電化を機に神領にやってきた。
全般検査出場したばかりながら冷房改造は行われず、真っ白に塗り上げられた天井からは懐かしい首振り扇風機がぶら下がっている。室内にはペンキの匂いがまだ残っていたことを思い出す。
 


夜行列車の普通座席で最も楽に寝て行くにはどうするか。ボックスを独り占めできるときには前の席に脚を乗せ、上の画像の左下に写っている男性のようにL字型に寝るのが一番という説が有力だ。
ところが「きそ4号」にはもっと強者が居た!ボックスシートの座布団を二つとも外し、縦につなげて床に置き、その上に寝ているのである。下の画像で貫通扉の手前に黒く写っているのが件の強者である。★のマークはないから寝台料金も取れないし、布団は外しただけで、すぐ元通りにはなるから器物破損にもならない。こじつけで列車往来危険罪を適用しようにも、跨いで通れればどうしようもあるまい。カレチ氏もさぞ困ったことだろうが、今ならさしずめ迷惑防止条例適用というところか?
 


音を録るというのも、かなり前から流行っていた。やはり蒸気機関車のドラフト音、五音階の汽笛あたりを残そうというところが出発点になろうか。もちろん旧型国電の吊り掛けモーター音などもおいしいところなのだが、このときの目的は青山峠越えの近鉄2200系モーター音とダブルタイフォンの響きであった。ところが本番前にやはり「きそ4号」の車内音を録っているのである。この頃使っていたのはSONYの小型カセットレコーダーTC1000。デトニさんと私の2台がサハ153−3のテーブルに並んだところである。その下に目を移すと、蓋のないワッペン形の灰皿が懐かしい。
この頃盛んに録音していた音源は、今もカセットテープに50本近く残っているので、機会があればサイトでご紹介したいものだがまだそこまで手が回らない。


5時過ぎに早朝の名古屋に着いた。東海形ベンチレーターが千鳥に並び、元祖ユニットサッシが整然と並ぶごく当たり前の光景である。このあと空腹をホームの「きしめん」で満たしたのは言うまでもない。

近鉄を期待した方には申し訳ありませんが、次回ドドーンと近鉄2200系が登場いたします。お楽しみに。

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