『特別急行列車』の時代
=クロ181・クロハ181併存の頃=
大学時代は、帰省に飛行機を利用したことはなく、鉄道の利用であった。それでも東京から大分へは直行せず、必ず途中どこかに立ち寄って列車を撮影して帰った。帰省が近付くにつれ、今度はどのルートで帰ろうか、何を撮ろうかと計画を立てるのが楽しみだった。
帰省の際は、まず寝台列車で東京や上野を発ち、東海道または上信越・北陸線などを経由して、翌日は大阪駅などで山陽線や北陸線など、在来線の花形特別急行・急行列車の撮影をし、ついでに近場の観光を済ませて、その夜は山陽線の寝台列車に乗り、翌日はまたどこかに寄るなどし、東京を発って3日目の午後に大分に到着するというパターンが多かった。到着後は長い休みが待っているのだから実に気楽なものであった。
山陽線の181系が健在な間は、帰省にあたり、まずはその姿を記録することに主眼を置いた。当時はすでに181系に改造されていたが、ヨンサントオ(1968年10月の白紙ダイヤ改正)までは四国連絡の宇野「ゆうなぎ」「うずしお」に、広島「しおかぜ」と下関「しおじ」と、4種類の181系特別急行列車が自連むき出しで走っていた。

開放室を2等に改造されたクロハ181-10。栗林氏が初めて区分室に乗車した際、途中岡山で撮影された一コマである。(次回乗車記を公開予定)
1968年7月18日 岡山
まだまだ1968年頃、旅行の主役は航空機よりも国鉄。世間は7年前のサンロクトオに続くこの秋のダイヤ白紙改正の話題でもちきりであった。そして1968年(昭和43年)8月24日、国鉄は満を持して10月ダイヤ改正の概要を発表する。その記事はその日の夕刊には間に合わず、翌25日の掲載となった。当時池袋に住んでいた私は駅に走り、朝刊各紙を買い込んでじっくりと見たものである。
この改正では東北本線の全線電化が完成し、気動車で常磐線経由の特急「はつかり」が晴れて電車化・東北本線経由に変更という大きな改正となったが、西日本方面では東京〜九州間の寝台特急「あさかぜ」の増発、中京・関西〜九州間寝台特急の新設などが行われた。181系の特急「しおかぜ」は「しおじ」に、「ゆうなぎ」は「うずしお」にそれぞれ愛称が統合され、気動車特急「かもめ」「いそかぜ」の併結相手の建て替えや、行先変更などが行われた。
かくて、ヨンサントオ改正前最後の帰省となる1968年8月の計画ルートは次のように決まった。
まず8月29日東京から夜行のドン行143列車で名古屋へ出て、翌30日朝、名古屋から481系としては残り1ヶ月となった「つばめ」で大阪へ。大阪駅で181系などの特急列車を半日撮影し、新鋭寝台特急581系「月光」で小倉へ。31日に小倉から日豊線急行「にちりん」で大分に帰ると言うものである。
22時頃池袋の家を出て22時半過ぎに東京駅14番線に着く。2等座席車(ハザ)での夜行はさすがにきついので今回は東京から大阪まで「つばめ」も含めて1等乗車券を購入している。ホームの2等車乗車口には結構乗客が並んでいるが、やはり1等車のところにはあまり人はいない。 143列車はEF58に牽かれて22時58分に入線して来た。編成は13両で前から郵便車と荷物車が1両ずつ、3両目は荷物と2等の合造車でこれが1号車になる。4両目が2号車の1等車で今日は「スロフ512056」が連結され、その後ろに2等車が9両ずらりと連なっている。

急行用の特別2等車として1950年に製造されたスロ51を緩急車化改造して生まれた形式。143列車にはスロ51もしくはスロフ51が使われ、普通列車のリクライニングシート装備1等車として人気が高かった。143列車は10月の白紙ダイヤ改正で153系電車に置き換えられ、運転区間も美濃赤坂までとなってしまう。
1968年8月29日 東京
1等車スロフに乗り込み左側の窓側に席を占めるが、あまり混んでおらず隣席には誰も来なかった。「本日の最終列車です。普通列車ですが途中停まらない駅がありますのでご注意下さい。」とのアナウンスが繰り返される。終列車なので乗り過ごすともう後がないのだ。
23時30分定刻に東京駅を発車。有楽町を通過し新橋、品川に停車する。多摩川を渡るともう外は真っ暗で何も見えない。持参した松本清張の「黄色い風土」をパラパラとめくる。スロフ51はいわゆる特ロでシートはリクライニングするが、寝るにはやはりハネの方が楽だ。なかなか寝付かれず、車内の電気が減光された後も「黄色い風土」に目を通す。
隣が空いているのでエビのように横になって寝るが、機関車けん引の客車列車の宿命か停止と発進のショックがものすごく座席から振り落とされるくらいガッチャン!とくる。結局大して眠れずに、豊橋に着いた午前5時頃からもう寝るのはあきらめ、明るくなってきた外の景色を眺める。上り寝台特急の「あさかぜ」「富士」「はやぶさ」と次々にすれ違う。あちらはまだ寝心地の良いベッドで夢の中だろう。
6時35分、2分遅れて名古屋に到着。前部3両の郵便車と荷物車では多くの人が集まり、さかんに郵便や荷物が積み下ろしされていてまるで戦場のよう。
名古屋は初めてである。ベンチに座り時刻表を取り出して構内の配置を頭に入れる。改札を出てまず荷物を一時預り所に預ける。バッグ1個で50円だ。コンコース上部には電光掲示板やパタパタとめくってゆく掲示板ではなく、テレビ画面がいくつ設置されており、ここに出発案内などが写し出される。
「みどりの窓口」で「つばめ」の大阪までの1等自由席特急券を買う。自由席は指定席よりも100円安く1220円だ。大阪までは新幹線の方が早いが、「つばめ」はこの10月の改正で481系から581系に車種変更される。今のうちに481系「つばめ」に乗っておきたいと思ったからだ。始発の名古屋から1等車にそう多くの乗客が乗ることはあるまいと思い自由席にした。

当時の「つばめ」の1等自由席特急券。4号車が指定、食堂車の隣5号車は自由席の1等車であった。券面には発駅名古屋と「つばめ」が印刷されていて、行先はゴム印対応。
7時半頃、富山行481系「しらさぎ」撮影のため、入場券を買ってホームに入る。ホーム端で待っていると7時48分頃バックで入線してきた。すぐに隣ホームに普通電車が入って来たのでいい写真が撮れなかった。

大阪方から5番線に入る481系「しらさぎ」。先頭はもちろんクハ481の基本番代である。この当時から自連カバー上に滑り止めが取り付けられていたことがわかる貴重な一コマである。
1968年8月30日 名古屋
8時ちょうど、「しらさぎ」は一路富山に向け発車して行った。いったん改札を出て、荷物を受取って8時45分頃「つばめ」1等特急券と1等乗車券を持ってホームに入る。8時50分、早くも481系「つばめ」は入線して来た。

「しらさぎ」同様大阪方から5番線に入る481系「つばめ」。隣には当時の普通電車の主力モハ80系が控える。
1968年8月30日 名古屋
5号車の自由席1等車に席を占め、撮影にとりかかる。先頭車クハのヘッドマークは上下がグレーの151系時代のものが装着されている。パーラーカーもない481系使用の庶民特急になってからはそんな特別マークの使用はないものと思っていたが意外であった。まだ使えるから使用しているのであろうか?このマークは151系だからこそ似合う気がするのだが…。ともあれ、この481系による「つばめ」はあと1ヵ月の命である。その姿をじっくりと目に焼き付ける。

大阪方の先頭車。まだ、テールライトのスイッチは入ったまま。発車25分前の入線だから、乗務員にも万事余裕がある。
1968年8月30日 名古屋
9時15分、熊本行「つばめ」は定刻に名古屋駅を発車した。滑るように走り出す。やはり特急電車はいい、先程までの143列車に比べると同じロザでも雲泥の差だ。発車してしばらくは徐行運転。先行列車が遅れているらしい。右手に名鉄特急「たかやま号」が見えた。481系「つばめ」には2両の1等車が連結されている。前方4号車が指定席車で、この5号車が自由席車である。1等車にはほとんど客は乗っていない。2等車も同じような状態である。やはり山陽線の特急は新幹線からの接続が主な使命であろう。

自由席ながらガラガラ状態の5号車サロ481-17室内。低い多孔吸音板の天井や縞模様入りのシートモケットなど151系譲りのインテリアである。
1968年8月30日 名古屋
ちなみにこの「つばめ」にしても名古屋9時15分発であるが、新幹線を利用すれば、名古屋を50分近くも後に出る10時04分発の「ひかり11号」に乗れば新大阪で乗り継げる。中京圏の利用者の利便性を考えた上での新大阪−名古屋間延長運転であろうが、今日の状態を見る限りその効果はあまり上がっていないような気がする。
蒸し暑かった名古屋駅からクーラーの効いた特急に乗り込むとまさに天国のようだ。しかも1等車である、フットレストに足を乗せ、リクライニングの座席に身を任せていると、昨夜の寝不足から眠くなる。しかし、ここで寝てしまえば何のためにロザに乗ったのかわからなくなる。気を取り直してせっかくの1等車の旅を楽しむことにする。

1等のステンレス標記も輝かしいサロ481-17とサシ481の連結部分。サシの食堂はテーブルクロスやナプキン、花瓶なども並べられ、営業開始準備は万端である。車端部分の塗り分けもきちんと行われていたことがわかる。
1968年8月30日 名古屋
名古屋を出て20分、初の停車駅岐阜に到着する。県庁所在地であり、以前は電車特急「富士」や「ひびき」なども停車した主要な駅だが、思ったよりも小さな駅だった。10時14分、米原に停車。北陸線の分岐駅である。しばらくして大津を通過。岐阜と同じく県庁所在地であるが大津駅も小さな駅だった。やはり米原など、町は小さくても本線が分岐している駅の方が構内は大きい。11時02分、京都を出る。いよいよ大阪に近づいた。線路際でこの列車を撮影しているファンを見かける。481系「つばめ」の最後の雄姿を記録しておきたいファンは多いだろう。カーブを走っていると方向別複線のため同じ方向に走る普通電車が少し先に見えた。追い越せ、追い越せ!と、窓にへばり付いて見るが、相手もサル者、こちらがかなりのスピードで追い上げてもなかなか追い付かない。逃げ込まれたかなと思ったところでようやく最後部を捕らえた。ジワジワとまるで停止しているみたいにゆっくりと追い抜いてゆく。左側の窓を見ると電車は矢のようなスピードで走っている。右側の窓は停まっているように見える。向こうの電車は普通電車、立っている乗客などがこちらを覗きこむ。こちらは1等車のリクライニングシートにふんぞり返っている。向こうからの羨望のまなざしがまぶしい。先月の特急「第2しおじ」パーラーカーで普通電車と並走した時のことを思い出した。完全に追い抜いたときに相手の電車の運転手の顔を覗き込むと、彼はニヤリと笑った。面白い追い抜き劇であった。
新大阪に近づく。宮崎からの寝台急行「夕月」の編成が向日町基地に向かうのとすれ違った。11時30分、新大阪に到着。2分停車で「つばめ」は発車し11時37分、大阪駅4番線ホームに滑り込む。また時刻表で駅構内図を確認する。ホームから階段を降りようとすると、下に何と「ここで急行券をいただきます」という立て札があり、そばに駅員がいる。これはマズイ!と引き返す。自由席ながら「つばめ」と印刷されたせっかくの特急券をむざむざと渡してなるものか!しばらく様子を見つつ、スキを見てサッと通り抜ける。成功だ!よかった。先月の「第2しおじ」特急券も新大阪駅改札で回収されたが、世知辛くなったものだ。改札を出てまず一時預かりに荷物を預ける。2個で100円。入場券20円を買ってホームに入る。
本来なら「つばめ」よりも早く着いているはずの富山からの481系「第1雷鳥」が遅れて4番線に到着した。しばらくして引き揚げたこの編成、今度は12時40分発富山行「第1雷鳥」として12時半前に10番線に姿をわした。

遅れて到着の上り「第1雷鳥」。珍しく昼間にヘッドライトを点灯しての到着。奧に見える東海道緩行は旧型の寄せ集めである。
1968年8月30日 大阪
次は待望の181系が来る。広島からの上り「第1しおかぜ」が12時31分、9番線に到着した。最後尾1号車を見るとクロハ181−10である。先月、下関から新大阪まで初めて乗ったパーラーカーだ。うれしい再会である。

大阪駅に到着した上り「第1しおかぜ」。1964年9月30日に最終の下り「第2こだま」に使われたクロ151-10の改造である。左右に大きく離れたタイフォン穴は、クハ181-65に改造されてなお特徴的外観として残っていた。
1968年8月30日 大阪
区分室には何やら偉そうなおっさんとそのお付きとおぼしき人が乗っていた。

乗務員室扉上に水切りのない、スマートなクロハ181-10側面。大きな側窓からは偶数車の特徴であるゴールデンイエローのソファが見える。この大窓を独占できたのだから贅沢な話である。
1968年8月30日 大阪
4分の停車時間の間に9番ホームで撮った後、階段を駆け下り8番ホームに駆け上がって反対側からクロハの全身を撮る。

ホーム反対側からクロハ181-10の区分室付近をとらえたもの。優雅な大窓の曲線フォルムが美しい。ホームの向こうには481系下り「第1雷鳥」のいかり肩も見えている。
1968年8月30日 大阪
当時は特別急行も普通急行も現在のような1号、2号という呼び方ではなく、「第1しおかぜ」とか「第2しおじ」という格調高い呼び方で、準急と新幹線だけが「東海3号」とか「ひかり101号」とか言う呼び方だった。やたらにインフレ号数で有難味のない新幹線は、車両も0系ばかりだったため関心が無く、ほとんどカメラを向けていない。

クロハ181-10をしんがりに大阪を発車する「第1しおかぜ」。新大阪まであと僅か、すでに編成は4号車にサハ180を入れた11両編成になっている。
1968年8月30日 大阪
それから急いで5番ホームに走り、4番線に到着する181系下り下関行「第1しおじ」12時40分発を撮る。スカートのタイフォン穴の特徴から、これはクロハ181−5。

クロハ181-5を先頭にした下り「第1しおじ」。助士席側に小さく2カ所開けられたタイフォン穴が特徴で、1973年5月の撤退まで山陽路にとどまった車。当時はまだ自連カバーは付いていないもののテールライト周りは銀縁のまま、もちろんバックミラーも残っている。
1968年8月30日 大阪
次の下り「はと」まで1時間の小休止。13時35分、4番線に481系博多行「はと」が入るのでホーム端まで行って入線を撮る。停止したところを撮って急いで5番ホームに走り、反対側から撮る。

こちらももちろんボンネットのクハ481「はと」。しかし181系クロハを見た目で見ると何ともローカルな印象は拭いきれない。
1968年8月30日 大阪
14時35分、宇野行特急下り181系「ゆうなぎ」が4番線に入る。クロが来るかもしれないので反対側の5番ホームで待つ。静々と近づいてきて目の前で停まった先頭車を見ると、やはりクロハではなく、正真正銘のクロだ!ついにクロに出会うことが出来た。車番はクロ181−12である。貴賓車予備として製造され、区分室窓にも防弾ガラスを使用した特別仕様車だった。この12の区分室には151系時代の1963年(昭和38年)9月に当時の天皇皇后両陛下(昭和天皇)が、翌1964年(昭和39年)には皇后陛下(良子さま)が2度ご乗車になられている。何れも目的地が岡山であったためか、ご乗用列車は3度とも「富士」であった。

ヨンサントオを前に宇野特急に限定運用されていたクロ181-12。自連カバーがないのは残念だが、等級表示の位置からもまさに正統パーラーカーであることがわかる。ウィンカーランプはもちろん、バックミラーも健在、テールライトも銀縁である。同車は10月の白紙ダイヤ大改正ののち、はるか郡山に送られ、初のクロ→クハ180改造を受けてクハ180-51に生まれ変わる。
1968年8月30日 大阪
開放室にはあの黄色とこげ茶モケットの上品な柄(エジプト柄)の一人掛けシートがずらりと並んでいる。大窓に2等座席は似合わない、やはりこの一人掛けシートでなくては。まさに真打ち登場!神々しいばかりの気品である。震える手で斜め後ろから車番を入れてシャッターを切る。区分室、開放室ともに乗客はいないようである。
クロハに改造されていないクロはこの時点で−11と、この−12の2両だけである。外観だけではあるが貴重な姿を目の当たりに出来て満足であった。14時40分、クロ他11連は一路宇野に向けて走り去った。「ゆうなぎ」最初で最後のショットであった。

クロ181-12のナンバーもしっかりと入った真打ちパーラーカー。大窓からは特徴有るエジプト柄の1人用リクライニングシートが覗く。正に特急先頭車に相応しい風格と気品が感じられる。
1968年8月30日 大阪
次は15時31分着の宇野からの181系上り「ゆうなぎ」を10番ホームで待つ。ホーム端でカメラを構えて待っていると、やって来た先頭のクハには何と!「うずしお」のマークが付いている。何だこれは? 最後尾の車両はもう1両のクロかと期待したがこれは残念ながらクロハであった。何とこれにも「うずしお」マークが付いている。停止すると車掌が二人ホームに降りてきたので「これは<ゆうなぎ>ですよね?ヘッドマークには<うずしお>とありますよ。」と告げると二人は顔を見合わせすぐにマークを確かめ、シマッタというような顔で苦笑いをした。「どうしようか?」「もう遅いよ」というような会話があった。

大阪駅に滑り込んでくる「うずしお」?の「ゆうなぎ」。先頭はスカートタイフォン穴の特徴からクハ181−7と思われる。相方のクロ151−7を静岡の事故で失い、この頃はもっぱらクロハ181−8と編成を組む事が多かったようだ。
1968年8月30日 大阪
おそらく宇野でヘッドマークの交換を忘れてそしてそのまま走って来たのだ。誰も気付かなかったのだろうか?お粗末なことではある。発車を見送る際に車掌に手を振ると「どうも有難う」という言葉を残して「うずしお」ならぬ「ゆうなぎ」は新大阪に向け走り去った。

クロハ181も「うずしお」表示の「ゆうなぎ」。左右に離れた小振りのタイフォン穴はクロハ181−8の特徴。のちにクハ181-63に改造されるが、スカートは短くなってもタイフォン穴の特徴はしっかり受け継がれた。
1968年8月30日 大阪
8月も終わりとなると夕暮れが早い。フラッシュを持ってないため夕刻以降の撮影は無理だとあきらめる。しかし暑い!名古屋と同じく蒸し暑く汗だくである。持参した松本清張の「黄色い風土」も読んでしまったし手持ち無沙汰なので、一旦駅の外に出てみる。駅前の歩道橋に上り、ぼんやりと車の流れを見る。大阪万博まであと何日何時間というカウントダウン時計が阪急デパートの壁に設置されていた。
21時半頃、荷物を受け取り、待合室に入る。いい加減お尻が痛くなったので待ち切れず支度をして23時頃4番ホームに入る。どうせ時間があったのだから新大阪まで行って始発前にゆっくり乗り込めば良かったと思う。
23時35分、待ちに待った寝台特急581系「月光」がホームに入って来た。3号車に乗り込む。指定された寝台は9番下段だ。ベッドはもうセットされてある。真ん中の通の両側にずらりと寝台が並んでおりロネみたいだ。この581系には1等車はなく、すべて2等寝台だ。しかし下段は20系などの1等寝台に引けをとらない。それが目的で下段を取ったのだが、中に潜り込んでみると確かに広い。浴衣に着替えて枕もとの電気を点けて明朝の停車駅と時間を調べる。二重窓の中にあるブラインドを上げると夜の大阪のネオンがまぶしい。三ノ宮を出た後、ブラインドを下ろし電気も消して毛布をかぶって寝る。
翌8月31日、朝日がブラインドを通して差し込んできたので目覚める。時計を見ると6時50分だ。「間もなく小郡です。3分間停車いたします。なお、この小郡を出ますと寝台を片付けさせていただきます。」とのアナウンスが流れた。あわてて服を着ていると列車はもう小郡駅のホームに滑り込んでいた。急いでカメラを持って外に出る。隣のホームには下り急行「日向」が停まっている。ここで追い抜くのを何かの本で読んだことがある。朝日に照らされた「月光」先頭車両を1枚撮る。考えてみるとこの「月光」は昨夜の「みどり」の折り返しだ。そう思うとさらに親しみがわいた。

小郡に到着した「月光」クハネ581。在来線特急電車は581系以外全てクリームと赤のカラーリング、先頭車はボンネットが当たり前の中にあって、この581系の新鮮さがどれほど強烈であったかは想像に難くない。
1968年8月31日 小郡
小郡を出ると寝台の片付けが始まった。その間に洗面を済ませて食堂車に行き、300円の和定食を食べる。食堂車も天井の高さは寝台車と同じなので広々として気持ちがいい。3号車に戻ると寝台の片付けはまだ終わっていない。係員は汗を流しながら一生懸命に働いているが、一人で1両すべての寝台を片付けるのは大変だ。やっと終わって、座席車となった「月光」のシートに座る。中段、上段の客も降りて来て一緒に座る。窓の外には田畑の緑が朝日に輝いてきれいだ。この朝の清々しさが寝台列車の醍醐味だろう。


「月光」の特急券と寝台券。プルマン式のロネのようなゆったりとした寝台は実に画期的であった。
先月パーラーカーに乗り込んだ懐かしい下関に到着する。客車列車と違ってあっさりと発車する。関門トンネルを抜けて交直切り替えセクションを通過して門司駅を通過。「日豊線下り急行列車にちりん・佐多・ゆのか号ご利用の方は〜」との接続案内アナウンスが始まった。8時20分、定刻に小倉に到着する。
「にちりん」の出るホームにゆき、立ち売りの急行券200円を買う。「にちりん・佐多・ゆのか」の多層建て急行は博多方面から逆編成で入って来てここで日豊線にスイッチバックする。編成は前から2両が「佐多」次の3両が「にちりん」残りの8両が別府で別れて大分から久大線を博多に向かう「ゆのか」だ。大分に先行する「にちりん」の車両に乗る。8時29分発車。2時間後の別府で「ゆのか」を切り離す。別府を出ると別府湾を一望する海岸沿いのルートにかかる。この景色を見ると、ああ大分に帰って来たなあといつも実感する。海岸から分かれて西大分を通過し10時47分、大分駅1番ホームに到着した。
ドン行各駅停車に特急「つばめ」、大阪駅であこがれの181系特急の撮影、新型寝台特急初乗りと、東京−大分間の盛りだくさんの旅行はこれで幕を閉じた。