1973年9月4日 米原(其の1)
1974年7月20日の湖西線開業によって、大阪、京都から北陸方面へのアクセスは飛躍的に向上した。それまで交通の要衝として優等列車から普通列車まで様々な列車がひっきりなしに発着していた米原駅も、東京、名古屋方面からの接続駅としての役割に生まれ変わっていった。
湖西線開業を翌年に控えた1973年9月、往復夜行の一人旅に出た。下り「銀河2号」で5時過ぎに到着、ほぼ終日米原駅で撮影を行ない、大垣から<144M>で帰京というスケジュールだった。
カメラは父に払い下げてもらったコニカVとフジカシングル8、カラー、モノクロ合わせてボンネット特急を主体に100枚ほど撮影した。
交通の要衝「米原」の輝かしい時代をご覧頂きたい。
出発の夜、21時頃の我孫子駅である。緩行線ホームに103系1000番台と営団6000系が停車中。30年を経た現在も構内の印象はほとんど変わらない。
1973-9-3

22時40分発の急行「銀河2号」で米原に向かう。牽引は宮原機関区のEF5896、後ろには10系寝台車が続く。
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東京駅12番線で発車を待つ「銀河2号」大阪行き。「銀河1号」は「紀伊」と併結の全車寝台であったが、「銀河2号」は東京寄りに座席車2両を連結していた。座席車にはスハ44+スハフ43の元特急車両が使われ、固定クロスシート車に比べ優雅な印象はあったが、足が伸ばせないのは難点だった。
この車はスハ44の改造で誕生したスハフ4313で、デッキと車掌室の位置がオリジナル車と逆で妻面の窓もない。
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早朝の米原駅に到着した急行「銀河2号」。ご覧のように14両の長編成はホームからはみ出してしまい、14号車に乗ってきた私は専務車掌の誘導で12号車から降ろしてもらった。
東海道本線と北陸本線、新幹線とのホームは離れていて、長い陸橋で結ばれていた。その間にはご覧のようにDD50やDE10が休んでいた。
まだ米原駅の状況がつかみきれないうちにいきなりDD501+DD505が特急「日本海」を牽引して滑り込んできた。ホームのベンチでカメラや時刻の確認をしている最中の出来事で、正面からDD50+20系の姿をとらえることは出来なかった。
米原で機関車付け替えのため停車中の上り「日本海」。先頭にDD50が連結されているのがわかる。ここでDD50を切り離しEF58が大阪までのアンカーを務める。

マニ2052とがっちり手を組むEF58112。もちろんヘッドマークがついているのだが、ご覧の通りホームから大きくはみ出して停まっており、正面からの撮影は出来なかった。このあとの発車シーンは8mmで撮影した。
見事にキハ20同形車で編成された区間列車。敦賀〜米原間ローカルはDL牽引の客レとこのような気動車列車とがあったように記憶している。
番号だけは先頭から502・503・394としっかり控えてある。
当時は東海道線の京阪神ローカルにもグリーン車が連結されていた。東京口は利用客が多く、定員確保の観点からサロ112は敬遠され、ほとんどの車が高槻に集結していたのである。元は東海道本線の急行用一等車として1961年から製造が開始されたサロ152で、この車はトップナンバーからの改造。サロ152時代である1964年4月に急行用一等車冷房改造のテストケースとしてAU12形を6基搭載した。

発車を待つクモハ475-46ほか米原〜金沢間急行「くずりゅう」。編成は475系モノクラス6連で、さしずめ今の「加越」の前身と言える列車であった。急行列車のヘッドマークは関東地区においては房総地区を除いて見ることが出来なくなっていただけに、「くずりゅう」にまでヘッドマークがついているのは感激だった。
ヘッドマークのアップ。「立山」「ゆのくに」などとデザインは同様ながら分割併合を考慮して、貫通扉内に収まるコンパクトな設計。可変式でめくると「快速」が表示される。
