1973年9月4日 米原(其の2)


米原に顔を見せていたモハ80系。この当時すでに大阪からのモハ80系列車はなく、大垣区の車が米原まで顔を出していた。まばらな乗客を乗せて発車する上りローカルクハ86353のサイドである。この車はこののち飯田線に転じて10年近く生き延びることになる。


地味ながら米原にあってその存在を主張する急行「くずりゅう」。この頃は編成美を意識してか、50Hz60Hz共用制御車にも裾にクリーム帯が巻かれていたクハ451−34。隣のワム70000とワム90000も懐かしい。


朝、7時過ぎに一度改札を出てみた。接続が使命の駅の特徴であろうか「交通の要衝」というにはあまりに小ぢんまりとした駅舎で、駅前も早朝と言うこともあってか閑散としている。左端の富士重工ボディーの路線バスはライオンズカラーなどは遥か後の話の「近江バス」オリジナル塗装車。駅改札前には「水中メガネ」ことホンダZがちょこんと停まっている。


米原に停車中の近江鉄道モハ503のサイドビュー。元を正せば1923年(大正12年)製の神戸姫路電鉄の7形であるが、宇治川電気を経由して1928年に近江鉄道にやってきた。その後2度の車体載せ替えによりモハ503となった。前年の1972年に車体を新造したばかりで、アルミサッシの近代的外観であるが、避雷器がLA13タイプであるのがご愛敬。彦根の車庫の片隅に今も眠っているかも知れない。


東海道本線と言えば湘南形2枚窓、その原点となったモハ80系とその流れを受け継いだEF58の並び。近代的な軽快さの中にも気品のあるデザインである。モハ80系は300番台の全金車、EF58は大窓の31号機。大きなPS14形パンタと大窓が原形を伝える。牽引される客車は当時の最新鋭波動用12系。


同じ2枚窓とは言いつつも、なぜか野暮ったく厚ぼったくなってしまった戦後初の国鉄電気式ディーゼル機関車DD50。特に1次車はそののっぺりとしたデザインから「海坊主」のニックネームを頂戴してしまった。深く丸い屋根と、裾まで伸びた前面形状から、このニックネームも致し方あるまいと思えてしまう。


2両を背中合わせに連結してあたかもEH10のような形で重連運転されるが、形式が示すとおりあくまでも4軸の機関車で片運転台という扱い。それだからというわけでもあるまいが、妻面にはちゃんとテールライトが埋め込まれているのがご覧いただけよう。


1953年のデビュー当時はもちろんぶどう色に白いラインのいでたちであったが、ディーゼル機関車の塗装変更にともなって白いラインを境に朱色4号とねずみ色1号に塗り分けられ、今度は「だるま」のような印象になってしまった。とは言っても、北陸線の区間列車の牽引や先に掲載の「日本海」牽引など「ゴウゴウ」という独特のエンジン音を轟かせながらの活躍が見られた。


運転台部分のサイドビュー。当初150Wだった前照灯は機関車によく見られる「鉢巻き」方式で250Wに改造されている。横から見てもなんとも武骨で、どうしても「アンコウ」とか「海坊主」とかに見えてしまう。


こちらは、EDの重連でありながら、当初から2車体のEHとして設計された東海道のヌシEH1025である。当時はすでに主力の座をフレートライナーEF66に譲ってはいたものの、まだまだ東海道線の貨物といえばこのマンモス電機が目に浮かんで来たものだ。製造当初から黒に黄帯の塗装を貫き通し(高速度試験の一時的塗装変更は除く)下手に青15号にクリーム帯などにしなかったのも筋が通っていて良かった。


続いて東海道上りホームにやってきたのはEF585の牽く名古屋行き急行「阿蘇」であった。当時はまだこのような夜行急行が多く残っていて、我々の目を楽しませてくれたものだ。やはりEF58の前面窓はHゴムでない方が良いし、大きなPS14パンタが似合うように思える。


区名表示が「浜」だけでなく「松」まで入ったEF585のサイドビュー。米原のホーム有効長は12〜13両対応であったのか、大概は機関車がホームを大きくはみ出して停車していた。画像ではわかりにくいがこのEF585は鋳鋼製の先台車を付けた異端機である。ホーム端の掘っ建て小屋のような便所も今では信じられない。

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