1973年 成田線(其の5)

<千サクの客車たち>
成田線の客レは佐倉客貨車区の車両によって運転されていた。1973年3月31日の配置表では、オハ35の38両を筆頭にオハ47、オハ61、スハ32、スハ43、オハフ33、オハフ46、オハフ61、スハフ42、スユニ61の10形式97両の営業車とスエ30・31・38、オヤ33の4形式5両の事業用車の計102両の配置があった。

【オハ35】
成田線客車の主力といっても良いオハ35は1939年に製造が開始され、戦争を挟んで1948年まで製造された3等鋼製客車である。製造年次により、また製作方法により数々のバリエーションがありる。1973年当時オハ35形式だけで884両が在籍しており、オハフ33を合わせると1,500両を超える大所帯であった。
佐倉客貨車区配置オハ35の38両中、30両が電気暖房付きであった。当時あまりにオハ35は多かったので形式写真的に撮影したのは異端車であるオハ35420のみであった。
これはノーヘッダーで製作されたオハ35420で、窓上部隅が丸くなっていて私鉄の客車のような軽快な雰囲気を持った車だった。

9月24日  我孫子  


独特のノーヘッダーの側窓。停車中のデッキから撮影したものだが、今はこんな事などなかなか出来ない。

9月24日  我孫子


デッキには白熱灯の透明グローブ灯があった。客室内の乳白色のグローブではなくしかも電球もシリカ球ではないため、非常にクラシックなイメージが漂う。

9月24日  我孫子


シル、ヘッダーのリベットが目立つ戦前製オハ35251。こうした部分の写真はたくさんあるのだが形式写真は撮っていないのが悔やまれる。

9月16日  上野


鋼製客車のロングセラー台車TR23。オハ352164のものだが、車体のシルのリベットは潰されている。

9月16日  我孫子


【オハ47】
ス級の急行用スハ43のTR47形台車をTR23に振替え、オ級になったのがオハ47である。高度経済成長期の1960年代に急行用2等寝台客車(現在のB寝台)が大量に必要となったが、全て新製では賄えず、戦前製優等車の台枠流用でオハネ17(のちに冷房化でスハネ16)を製造することとなり、台車についてはスハ43のTR47に白羽の矢が立てられた。台車を失ったスハ43は予備品や廃車発生品などからTR23をもらってオハ47となったというのが台車振替の顛末である。1973年当時304両が在籍、TR23も随分とたくさんかき集められたものである。
佐倉客貨車区には、8両が在籍、うち6両が電気暖房付きであった。

これは電気暖房付きオハ472058、佐倉区のオハ47では最若番でぶどう色塗装だった。

9月24日 我孫子


【オハ61】
1949年から開始された木造客車の鋼体化改造によって生まれた形式である。台枠、台車のほか再利用できる金物類は極力利用し、背ずりも板張りという厳しい仕様であったが、戦後の木造客車一掃による安全確保の功績は大きい。地方線区への配置が多く、1973年の配置表をみるとオハ61よりも緩急車オハフ61の方が数が多い。
一時期は千葉の客車といえばオハ61であったが、1973年当時佐倉区にはオハ61が6両、オハフ61が4両のみの配置であった。個人的にはやたらとオハ61が多かった印象があるので、1971年3月末の配置表を見たら納得した。2年前はオハ61・オハフ61合わせて23両が配置されており、オハ47はわずか2両、スハ43など1両も配置されていなかったのである。

2年で半数以下に激減したオハ61の中で電化まで残ったオハ61102。鎧戸がいかめしい。

9月24日  我孫子


急行用スハフ42並に車掌室の後方監視窓までついたオハフ612554。しかし窓から覗く背ずりはしっかりと板張りである。

2月21日  成田


オハ61102の室内。背ずりにはいつの間にかモケットが貼られ、かなりサービス改善になっている。下のスハ32に比べてこちらを選ぶ客が多いのもうなずける。

9月24日  我孫子


【スハ32】
オハ35の一世代前の20m級鋼製客車である。1929年から二重屋根構造で製造が始まり1932年から丸屋根に設計変更、1941年まで製造された。独特の600mm幅の狭窓が非常に古い印象を与えるが、北海道や東北などの寒冷地では狭窓にそれなりの保温効果があり、かなり晩年まで北日本を中心に残存した。
佐倉区への配置は5両で、1971年度に高崎からやってきた。これと入れ替わりにオハ35・オハ61が淘汰されているから、車齢とスタイルを考えると如何なものかなという気はする。
高崎時代を物語る白丸(横軽通過対応車)付きのスハ322400。

1972年10月22日  我孫子


木工部分の工作にはオハ61とは全く違う丁寧さがうかがわれ、天井の照明なども優雅であるが、いかんせん扇風機もなく、しかも狭窓で薄暗い印象では乗ろうという客もいない。相手が背ずりにモケットがついたオハ61ではまず勝ち目はない。

9月24日  我孫子


【スハ43】
1951年から製造された急行用客車。基本設計はオハ35を改良したもので、室内灯の増設、シートピッチの拡大、座席の改良、TR47形台車の採用などようやく戦前の水準を超える車両となった。急行用として主要幹線で使用されたが、電車、ディーゼルカーなどの動力分散型列車が台頭し、しだいに幹線普通列車や地方線区へ転用されていった。
佐倉区への配置は1971年度に尾久と品川から電暖車6両、1972年度に品川から電暖なしが4両転入。1973年当時は10両を数えた。
隣のスハ32とは格段のアコモデーションを持つスハ43583。永らく東海道筋で活躍した経歴を持つ車である。

1972年10月22日  我孫子


スハ43の緩急車がスハフ42である。佐倉区への配置は1973年当時11両で、スハ43系の中では早くから配置のあった形式である。
このスハフ422260は1972年度に尾久からやって来た車。

9月24日  我孫子


【スユニ61】
1965年から1968年にかけて改造により誕生した郵便荷物車。60番台が示すように大半は鋼体化合造客車の再改造によって生まれているが、一部番台区分にはスハ43系列からの改造車も含まれる。
佐倉区には4両が配置され、
線内折り返し列車<828レ・823レ>に連結されていた。
この車スユニ6149はオハニ61の改造の基本番台ラストナンバーである。

9月16日  我孫子


上のスユニ61とは異なりTR23を履いた100番台、スユニ61114である。上の画像とは異なり郵便室側から撮影しているので雰囲気は随分違う。

1972年10月22日  我孫子

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