1973年4月6日 新松戸(前編)

1960年代、高度成長期に合わせてどんどん郊外へ膨れあがるベッドタウン化の波は、放射線状に広がる首都圏の国鉄、私鉄の輸送量増加に拍車をかけ、車両増結、列車本数の増大、複々線化、地下鉄直通化等の設備投資が追いつかない状態となり、混雑はいっこうに解消される状態ではなかった。
こうした状況を打開するために、都心に流入する貨物列車を外郭部分で別線に迂回させ、都心部および、周辺線区の線路容量を確保しようという「外郭環状線」構想の下、武蔵野線の建設が進められた。当初、貨物専用線として建設された武蔵野線も、周辺の宅地化と共に、従来鉄道の恩恵に浴することが少なかった新座、三郷、流山等の利便性も考慮し、1973年4月1日
新松戸〜府中本町間で旅客営業をスタートさせた。

開業から1週間、4月6日に訪れた新松戸はまさに荒野といっても過言ではない状態であった。

新松戸の常磐線緩行上りホームを発車する営団6000系。反対側ホームには国鉄103系1000番台の下り列車が進入してくる。上りは「代々木公園」行きで、前年10月に霞ヶ関から代々木公園までが延長開通している。代々木公園〜代々木上原の開通と小田急への直通はこの後5年後になる。


2004年4月10日の同一場所。営団は東京地下鉄となり、6000系のマークも変わったが、基本的なデザインが変わらないため、かなり「同じ場所」の雰囲気は出せた。ホーム上屋の延長と、エスカレーターの設置が行われホームの印象はだいぶ変わったものの、手前のホーム柱と架線柱、および乗車位置目標が定点割り出しの決め手となった。乗客が多いのを痛感する。



常磐線緩行ホームから府中方面にのびる武蔵野線高架と、新松戸駅前をのぞむ。常磐快速線のすぐ近くまで工事用の「トヨエース」が乗り入れており、駅前広場?にはテントウムシこと「スバル360」の姿も見える。


2004年4月10日の同一場所。武蔵野線高架はおろか、駅前が全く見通せなくなってしまっている。快速線の架線柱と、わずかに見える武蔵野線ホームの建物との位置関係を頼りに定点を割り出した。



開業を祝う飾り門がまだ誇らしげに建っている新松戸駅前。上の武蔵野線高架部分には折り返しの101系1000番台が停車中である。本公開に先駆けて画像掲示板に掲載した折、「お座敷レイアウト状態」との評を頂いたが、まさにその通りの状態で、鉄道施設以外の建物は何一つない。上の画像にも写っていた「テントウムシ」のほかにも3台の「スバルR2」、初代の「サニー」「カローラ」、「コロナハードトップ」などの車が時代を物語る。


2004年4月10日の同一場所。実際に訪れるまでは最も定点撮影が難しいのではないかと危ぶんでいたのがここであるが、武蔵野線から出口へ降りる階段部分の建家と窓、そして高架を支える基礎部分のコンクリート構造物が定点割り出しの決め手となった。武蔵野線ホームは防音壁に囲まれてしまい、電車の姿を見ることは出来ない。この防音壁がこのあとの定点撮影の前に大きく立ちはだかることになる。



武蔵野線高架の下をくぐる、流山鉄道モハ1101+クハ53。このモハ1101は元京浜急行のデハ400を1968年に西武所沢工場で再生したもので、当時の流山鉄道においては、最も近代的な外観を持つ車であった。植えられたばかりの苗木が心細く、掘り返された赤土と共に開発中の新松戸の様子を語ってくれる。


2004年4月10日の同一場所。踏切が出来ビルが建ち並び、武蔵野線高架との位置関係が全く掴めない。流山鉄道のクハ32ほか「若葉」号がビルの谷間に吸い込まれていく。架線柱の位置が変わっていないものとして定点を割り出したが、実際はあと3mほど線路寄りのあたりではないかと思う。大切に植えられたはずの苗木の運命は・・・。(涙)

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