特別編 父への鎮魂歌(其の1)
父は1923年(大正12年)東京に生まれた。父の乗り物好きがいつ頃から始まったものかは定かではないが、当時の子供の憧れであった雑誌「少年倶楽部」の付録、戦艦「三笠」の紙製組立模型を兄が作っているのを非常に羨ましく見ていたという記憶から始まっているようだ。
その後乗馬に興味を持ち(馬も乗物と言えよう)馬術部にも籍を置くが、次第に船へと興味が移り、九州帝国大学の造船科に入学する。
終戦を迎え、飯野重工勤務ののち、日本初の原子力船「むつ」開発に従事することとなる。
「むつ」は1969年6月に美智子皇太子妃殿下(現皇后陛下)を迎え進水したが、1974年8月臨界試験中に放射線洩れ事故を起こし、遠く母港を離れ佐世保に回航、ここで父は佐世保工事事務所の責任者として遮蔽工事の指揮を執ることとなった。その意味では、「むつ」は父にとって忘れがたいもう一人の「不肖の息子」であったに相違ない。その「むつ」も1990年に16年ぶりの臨界に成功、すでに引退した父の胸にも万感迫るものがあったであろう。

修理を終え、改めて本格的な実験航海に挑む「むつ」。1974年以来17年ぶりの海上での勇姿である。現在は原子炉を下ろし、海洋地球研究船「みらい」に改造されている。写真所蔵:父
それではここで、時代を一気に1959年に戻そう。父の乗り物好きは確実に息子である私にも受け継がれていったのであるが、父のもっとも好きだった船にはあまり興味を持たず、まず興味を持ったのは自動車であった。
これは東急の瀬田営業所で撮影したものである。日野のボンネットバスには、冬期のグリルカバーが取り付けられ、「飯倉経由」の表示が見られる。これは当時の路線バスが、都心部まで乗り入れていたことを物語るものである。緑ナンバーになる前の黄色ナンバーは図らずも「あ1000」というキリの良い番号、鞘から飛び出す方向指示器も懐かしい。

1959年2月1日 東急バス瀬田営業所
当時のサラリーマンにとっては、休暇に家族で旅行すると言ってもせいぜい伊豆や箱根が関の山、それも会社の保養施設を利用するのが当たり前であった。偶々箱根に飯野重工の保養施設があった関係で、箱根には良く行った。もちろん自家用車などはなく、小田急のSE車で行くのも贅沢な部類であった。
これはその折に小田原駅前の「箱根登山デパート」屋上から駅を俯瞰したもの。箱根登山鉄道線を行く小田急3000系、国鉄側にはひときわ目立つ湘南電車モハ80系、そして駅前にはボンネットバス、リヤエンジンバスに混じって、ずらりと大型のアメ車が並ぶ。小田原駅はつい最近までこの当時の建物が残っていたが、残念なことに建て替えられてしまった。

1960年3月29日 小田原
父は飛行機も船に次いで好きだった。育った時代が陸海軍華やかなりし頃であり、戦闘機の姿に憧れを持ったのかもしれない。
父の義兄は海外出張の多い人だったので、見送りにかこつけて、よく羽田に連れて行ってもらったものである。
これは当時の人気旅客機、ロッキードスーパーコンステレーションである。もちろんまだレシプロエンジンのプロペラ機であるが、流れるような曲面で構成された胴体に、特徴的な3枚の垂直尾翼が非常に優雅な印象を与えてくれる名機であった。この機体はエールフランスのものであるが、翼で点検する作業員の大きさと比べても、今の旅客機に比べるとそれほど大きくない機体であったことがわかる。

1960年4月17日 羽田
DC7Cはダグラス社がロッキードスーパーコンステレーションに対抗して、DC6の改良型として製造したプロペラ機の最後を飾る機体。日本航空では当時すでにジェット旅客機DC8の発注を行っていたが、納期が数年後となることからつなぎとしてDC7Cを1957年暮れから順次4機投入、主力の太平洋路線にDC6Bと共に就航させた。当時付けられていた機体の愛称が”City
of Los Angels”と読める事から、機体番号はJA6303であることがわかる。ファーストクラスの窓上に書かれたマークは「鶴丸」になる前の「折り鶴」をアレンジした日航のマークである。

1960年4月17日 羽田
赤い垂直尾翼は今も昔もノースウェストオリエント航空の特徴である。パンナムと並んで当時の羽田空港ではお馴染みのフラッグキャリアであった。この角度から見ると、主翼の優雅な曲線やDC6に比べてスマートな胴体が感じ取れる。機体番号は主翼に書かれたN294が確認できる。

1960年4月17日 羽田
父の鉄道への興味は路面電車にも及んでいた。今は「グリーンシャトル」<都01>系統のバスがひっきりなしに出入りする渋谷駅も当時はご覧のように都電のひしめき合うターミナルであった。6000形を主体に、手前には経済車8000形の姿が見られる。
また、後方を走り去るリアエンジンバスは旧塗装時代の都営バスで、複雑にしてシックな塗り分けに都会的なセンスが感じられた。

1960年5月8日 渋谷
同じ日に駅側から眺めた駅前の様子。向かいの東急文化会館ではハリウッド映画の封切り中。その横の高架から銀座線が顔を出している。都電は緑とクリームに塗り分けられた旧塗装の6000形も見られる。バスと都電の間にひしめくタクシーは左奧からトヨペットコロナ・ダットサンブルーバード・日野ルノー、手前の茶色いリアエンジン車も日野ルノーである。いずれも初乗りは60円、クラウン・セドリック・グロリアクラスが80円だった。

1960年5月8日 渋谷
いよいよ151系の登場である。これは夏休みに浜金谷へ出掛けるときに、沼津まで「第1つばめ」に乗せてもらった時ものである。今なら、何枚でも一緒に記念撮影をしてもらうところであるが、発車を前に「乗り遅れたら大変」と気が気ではなかった記憶しかない。隣の16番線に入っているのは急行「筑紫」であるが、サボは仮名書き。まだピカピカのクロ151であるが、当時の編成記録と運用表からクロ151-3と推測される。
もちろん乗車したのは2等車、それでも魔法の部屋に入ったかと思うほど冷房の効いた室内、中に入ると全く外の音が聞こえなくなり、発車した時は隣の客車が動いたのかと勘違いする程の静けさが今でも印象に残っている。

1961年8月14日 東京駅
父の撮影した写真はリバーサルフィルムを中心に200本近くに上る。しかしその中で、会心の作というものはそうは無い。これは500本近く撮影してきた私でも同じ事である。そんな中で私はこの写真に限りない賞賛を送りたい。
駅へ向かって急ぐ人々の長く延びた影が冬の朝を何にも増して物語る。逆光線という当時のカラーフィルムにとってはタブーとも言える光線状態の中、丸々とした当時の自動車の屋根が郷愁を誘う。
当時38歳の父はどのような思いを込めてシャッターを切ったのであろうか?

1961年冬 渋谷
写真の腕というものには脂ののりきった時期というのがあると思う。父にとって1960年代はまさに脂ののりきった時期であったのかもしれない。
この東京駅の写真も何気ない構図の取り方に巧みな意図が見られ、絵はがき的な写真とは言え、見るものの心をとらえる。

1961年冬 東京
小さい子供を持つ親にとって動物園は良く訪れる機会のある場所である。日本で初めての本格的な懸垂式モノレールが上野動物園の西園と東園を結ぶこのモノレールであった。イソップ橋を渡ればさほどの距離ではないが、物静かにモーターの唸りをあげてやってくるモノレールは、子供心に憧れの的であった。この車輌は今も日本車輌に保存されているが、現役時代の貴重な記録である。

1961年 上野動物園